2008年9月16日 (火)

毛越寺

 平泉 毛越寺(もうつじ/もうつうじ)は、嘉祥3年(850)慈覚大師円仁の創建と伝える。奥州藤原氏二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営され、堂塔40、僧坊500といわれる。藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭い、全ての建物が消失したが、大泉が池を中心とする浄土庭園と伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、平成元年には平安様式の新本堂が建立された。
 境内にはミヤギノハギ、シロバナハギ、ヤマハギが500株植えられており、9月中~下旬の開花時には萩まつりが行われ、「延年の舞」公演、茶会などが催される。

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            新本堂

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           南大門跡

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   大泉が池をはさんで金堂跡方面を眺める

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            築山

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            開山堂

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           講堂跡

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           金堂跡

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       遣水(曲水の宴の舞台)

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            鐘楼跡

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            経楼跡

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        常行堂(享保17年再建)

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           鐘楼堂

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            洲浜  

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2008年9月15日 (月)

達谷巌毘沙門堂

平泉町にある達谷巌(たっこくのいわや)毘沙門堂は、延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝記念として造営、京都鞍馬寺から毘沙門天を勧請、百八体の毘沙門天を祀ったといわれる。

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          二の鳥居

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          三の鳥居

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          毘沙門堂

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          毘沙門堂・懸造

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          毘沙門堂・懸造

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    北限の磨崖仏(左端)高さ約16.5m

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      磨崖仏 顔の長さ約3.6m
大日如来とする説もあるが、寺では阿弥陀如来としている。 

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2008年9月14日 (日)

骨寺村荘園遺跡

高校同期会で、8月31日~9月1日一ノ関・花巻方面に旅行した。
まず道の駅厳美渓で昼食。一ノ関名物餅料理を食べた。

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上記写真以外に雑煮がつき、6種類の餅料理。なかなか美味であった。

厳美渓は地震の影響か、折からの豪雨の影響か濁流。水量も多い。

  
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    この写真はバスの窓から撮ったやや上流の磐井川

目指す骨寺村荘園遺跡のある一ノ関市厳美町本寺地区へは、地震によるがけ崩れを修復工事中のところもあるが通行に支障なし。

骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)は、12世紀、藤原清衡の発願による「紺紙金銀字交書一切経」の完成に功のあった自在房蓮光を清衡がその経を納める中尊寺経蔵の別当に任命。蓮光は骨寺村の私領を経蔵に寄進。これに対し清衡はあらためてその地を別当領荘園と認定した。以降骨寺村は中尊寺経蔵別当領となり、15世紀まで伝領された。鎌倉時代及び南北朝時代に描かれた2枚の荘園絵図が中尊寺別当職を継承した大長寿院に伝来しているが、その絵図に描かれた景観がほとんどそのまま現存している。中世荘園の面影を留める唯一の遺跡ともいわれ、平泉の世界遺産登録申請の中にこの遺跡も含まれている。

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上記2枚は現地看板に貼ってあったもの。

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絵図に描かれている駒形根神社

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      遠西遺跡
 荘園時代の生活跡
   
12~13世紀の土器類と掘立柱の建物跡が発掘されている。

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本寺川
     要害橋から荘園遺跡の北側を望む

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     中央が若神子社(わかみこしゃ)
     要害橋近くから荘園遺跡の南側を望む
  

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2008年7月15日 (火)

浦和うなこちゃん

去る5月24日に、浦和駅西口改札口前に設置された石像「浦和うなこちゃん」の除幕式が行われた。浦和うなこちゃんは、浦和の鰻をPRするため、やなせたかし氏に依頼して作成したキャラクターで、さいたま市の観光大使にも任命されている。
解説板によると、

浦和のうなぎは、江戸時代に中山道を通る旅人に提供したのが始まりです。
浦和は、鰻の蒲焼発祥の地と云われ、その伝統の味が受け継がれています。
浦和うなこちゃんは、さいたま観光大使として活躍しています。

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2008年6月 1日 (日)

中山道浦和宿 4

○常盤公園(浦和御殿跡・浦和地方裁判所跡)
  江戸時代はじめ「御殿」が作られ、将軍の鷹狩などの時

 の休憩所となっていたが、慶長16年頃(1611)廃止され

 た。その後「御林」となっていた。発掘調査の結果土塁跡、

 堀跡、建物跡などが発見されている。
  明治26年浦和地方裁判所が建設された。和風の瓦葺入

 母屋造りの堂々たる建物であったが、昭和48年取り壊さ

 れた。現在残る赤レンガの垣柵と伽羅の木は当時のもの。

  昭和51年常盤公園が開園

  長沼新平(依山)の童話碑 

○「ここに浦中ありき」碑
   ここ武蔵野の鹿島台の地に、埼玉県立中学校が誕生した
   明治二十八年に県立第一尋常中学校の設置告示、翌年開
   浦和中学校の前身である。
   昭和十二年領家へ移転、現在の浦和高等学校となった。
   創立百年を迎え、発祥の地に記念碑を建立す。
    平成七年十月五日
      埼玉県立浦和高等学校
      創立百周年記念事業実行委員会


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○さいたま市役所
  元埼玉県師範学校の跡地
  昭和46年1月 浦和市役所が現在地に移転

  昭和51年2月 現在の庁舎(地上11階地下2階建て)
          
完成
  平成13年5月1日 合併によりさいたま市役所となる
  トルーカの鐘 姉妹都市メキシコのトルーカ市から贈ら
         れた鐘

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  「埼師跡」埼玉県師範学校跡記念碑
  「埼玉サッカー発祥の地」碑
    製作 島田忠恵  デザイン 鈴木国平
   「埼玉サッカー発祥の地碑文」
     埼玉のサッカーは明治四十一年六月に
    埼玉師範(現在の埼玉大学)ではじまり、
    多くの指導者が浦和を中心に教師として
    赴任したことにより、普及・発展をとげ
    ました。
    ここ浦和市役所は埼玉師範の跡地に建
    てられたものであり、正に埼玉サッカー
    発祥の地であります。
     未来に向けて、サッカーの街づくりを
    より一層推進するため、埼玉師範が全国
    大会で初優勝を飾ってから六十周年目
    の本年、埼玉サッカー発祥の地の記念碑を
    建設いたしました。
    平成九年四月
        浦和市長 相川宗一

○北足立郡役所跡
  明治11年(1891)7月22日郡区町村編成法により足

 立郡のうち埼玉県部分が北足立郡となった。明治12年か

 ら「市民会館うらわ」の地に北足立郡役所が置かれた。

○玉蔵院
  新義真言宗、京都醍醐三宝院の末、現豊山派 宝珠山延

 命寺と号する。
  弘仁11年(820)弘法大師一宇を建立し、自ら地蔵尊の

 像を彫刻して安置したのが始まりという。
  その後しばしば火災にかかり旧記を失った。
  文明10年(1478)印融伽藍を再建し、醍醐三宝院の末

 とし、道教の法脈を相承した。玉蔵院ではこの印融を初代

 としている。
  永禄12年12月(1569)火災により伽藍焼失
  元亀3年(1572)第4世宥盛伽藍を再建
  天正19年11月(1591)家康より10石の朱印地を寄

 進された。


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  石柱「守護侍不入」

   裏面に「天正十九年十二月日」とある。家康寄進状の

 「寺中可為不入者也」を受けて寺で建てたものであろう。

 「守護使不入」の間違いではないかという。また、現存の

 ものは後世のものではないかという。


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  元禄12年12月(1699)火災により伽藍すべて焼失
  元禄14年6月(1701)第12世宥尊本堂上棟(現存
 の
本堂)
  宝永7年11月(1710)第12世宥尊大日如来を造立
 
て本尊とした。
  安永9年2月(1780)地蔵堂建立 弘法大師自作とい
 わ
れる平安期の地蔵菩薩安置。4月23日のみ開帳
  表門(山門) 前記
  鐘楼 元は表門と本堂の中位にあり、鐘楼門となって
 い
た。鐘は戦後新鋳。
  二十三夜堂 調神社別当月山寺は玉蔵院が兼帯してき
 た
が、明治2年廃寺となり、本尊勢至菩薩が玉蔵院境内
 の神
主寺に移され、その堂が二十三夜堂と呼ばれるよう
 
になった。現在勢至菩薩は地蔵堂に安置されている。
  墓地は昭和10年、太田窪(原山4丁目)に移転され
 た。
  大施餓鬼 関東三大施餓鬼の一つとされ、毎年8月2
 3
日に行われる。
  枝垂桜

○埼玉県師範学校跡(埼玉会館・県立図書館)
  師範学校は明治11年、埼玉会館の地に移転してきた。

 木造二階建ての洋風建築で、明治天皇の地方巡幸の際行
 在
所として使用されるにあたり、太政大臣三条実美
 「鳳翔
閣」と名付けた。その後師範学校は現在のさいた
 ま市役所
の地に移転。鳳翔閣は女子師範学校の校舎とな
 った。鳳翔
閣は大正14年に北に移動されて改装され、
 県立図書館と
なったが、昭和34年老朽化のため取り壊
 され、中央部分
だけがさいたま市立浦和博物館の建物と
 して復元されてい
る。

 「行在所記念之碑」明治40年
 「浦和一女発祥の地」碑
   明治三十三年、この地に埼玉縣髙等女学校が誕生、
  翌
年、埼玉縣女子師範学校に併置され、埼玉縣立浦和
  髙等
女学校と改称、女子教育の中核をなす。
   明治四十三年浦和町字元宿台(現浦和市岸町)へ移
 
 転、その後女子師範から分離して、現在の埼玉県立浦
  和第一
女子高等学校の前身となる。
   創立百周年を記念し、ここ発祥の地に碑を建立する。
   平成十二年十一月四日
   埼玉県浦和第一女子高等学校
    創立百周年記念事業実行委員会

  埼玉会館は昭和41年、前川國男設計で再建

○埼玉県師範学校、埼玉県医学校発祥の地
  東和銀行浦和支店の地に、明治7年師範学校が、明治
 8
年医学校が開設された。
  師範学校は明治11年に埼玉会館に地に移転、医学校
 は
明治12年に廃校になった。
 「埼玉県師範学校、埼玉県医学校発祥之地」の碑が建て
 ら
れている。

○老舗
  割烹千代田
  満寿家(天然鰻を紀州備長炭で焼き上げている)
  青山茶舗 楽風(らふ)


○調神社
  祭神 天照大御神、豊宇気姫命、素盞鳴命
  延喜式神明帳に載せられている足立郡四座の一つ。
  由来には諸説がある。天保10年(1839)参拝した平
 
篤胤は、『調神社考証』で、伊勢神宮に納める初穂を
 入れ
る倉庫から発展した神社とした。この説は鳥居が
 いこと
と併せかなり流布している。『浦和市史』は、百
 済からの
渡来人調連(つきのむらじ)・調吉士伊企儺
 (つきのきし
いぎな)から推して調氏一族が祀った神
 ではないかとし、
鎮座地の岸は吉士から生じたのではな
 いかとしている。
  中世、月待供養(月の13日、17日、23日などの
 
に、月の出を待って供物を供え、共に飲食し、月を拝
 み、
無病息災を祈った)が盛んになると、月天子のい
 月宮殿
と調宮が一体と考えられるようになった。このた
 め月天子
の使いである兎の彫刻などが置かれるようにな
 った。さら
に調神社の別当寺は月山寺という名で、月天
 子の本地仏で
ある勢至菩薩が本尊として置かれていた。
 慶安2年8月の
家光による寄進状にも「月読社」と書か
 れ、幕末まで踏襲
された。
  本殿 安政6年(1859)竣工。本殿・幣殿・拝殿が連
 続
している。拝殿に寄進額が掲げられているが、合計1
 68
3両4分である。(浦和宿500両)


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  旧本殿(現境内社稲荷神社) 享保18年(1732)建立。

 一間社流造り


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2008年5月 1日 (木)

中山道浦和宿 3

○本陣跡

    浦和宿本陣は代々星野権兵衛家が勤めた。星野家は豊臣

 秀吉の小田原攻めの時、岩付城を攻撃する浅野長吉らの道

 案内をしたと伝えられている。

  問屋、名主兼帯。間口24間、敷地約222坪。
   
明治元年及び3年の明治天皇氷川神社行幸に際し、行在

 所にあてられ、宿泊された。

  本陣表門…星野家衰退後、緑区大間木の大熊家に移築現

 存。薬医門。総欅造り、桟瓦葺。棟の鬼瓦に星野家の紋で

 ある「細川九曜」が付けられている。

 
   
脇本陣は上町に2軒、下町に1軒あった。上町のものは、

 本陣隣の星野三左衛門家が角本陣、三左衛門家向かい側の

 星野新助家が東本陣と称された。

 
  「明治天皇行在所阯」碑
 (裏面)明治天皇行在所阯
            
従二位勲二等侯爵大久保利武題表
       
畏クモ 明治天皇明治元年十月十三日帝都ヲ東京ニ

    奠メサセ給フヤ同月十七日神祇崇敬ノ勅書ヲ下シ給

    ヒ武蔵大宮駅氷川神社ヲ當國ノ鎮守ト為シ親幸シテ

    之ヲ祭ルコトヲ宣リ給ヒ同月二十七日行幸御参拝遊

    ハサルヘキ旨仰出サレ同日皇居御出門大納言徳大寺

    実則参與大久保利通以下扈従シ奉リ天機御麗シク浦

    和宿行在所本陣星野権兵衛方ニ入ラセ給ヒ翌二十八

    日行在所御発輦氷川神社御親拝畢リテ行在所ニ還御

    翌二十九日東京ニ還幸アラセ給フ明治三年閏十月二

    十八日重ネテ氷川神社ニ行幸御参拝仰出サレ後二十

    九日ニ御変更アラセラル御休泊割等明治元年行幸ノ

    御砌ト同シク翌十一月朔日行在所御発輦氷川神社御

    親拝畢リテ行在所ニ入ラセラレ翌二日還幸アラセ給

    フ茲ニ光輝アル紀元二千六百年ニ當リ舊記ヲ案シ行

    在所阯ニ碑ヲ建テ以テ永遠ニ御聖徳ヲ欽仰シ奉ル
            
昭和十五年十一月十日
                         
埼玉縣浦和市長相川宗次郎
                         
浦和商業學校教諭清田俊平謹書

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○市場通り
 
(説明版) 市場通り
   
この通りの北側にある慈恵稲荷の社頭で、戦国時代以来、

  昭和の初めまで、毎月二・七の日に市が開かれました。

  そこでは、農産物や各種の生活必需品が取引されました。

  現在もそのなごりとして、市神様と市場定杭があります。

  これにちなみ、昭和55年9月に当時の歴史をしのぶた

  め「市場通り」の愛称がつけられました。
                              
浦和市  平成6年3月

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○ニ・七市場跡
    六斎市(月6回定期市が開かれる市)
  
蕨一六、浦和二七、鳩ヶ谷三八、与野四九、大宮五十
   
浦和の市場は、上市場、中市場、下市場に分かれていた。
   
   
定杭
   
(正面)  御免 毎月二七 市場定杭
   
(右側面) 天正十八年七月日(1590)
   
(裏面)  足立郡之内 浦和宿

    (参考) 浅野長吉禁制
                         
浦和市
               
禁制
             
一喧嘩口論之事
             
一押売押買狼藉之事
             
一町人諸役 付国質郷質之事
                  
右如先々市相立可商売者也
               
天正拾八年七月日 弾正少弼(花押)

  市神石祠 石製一間社流造り
   
新井丑太郎翁遺芳之碑

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○慈恵稲荷神社
    標石 (正面)慈恵稲荷神社
         
(裏面)大正十四年三月

   
庚申塔文字塔
         
(正面)  庚申塔(上部に日月と富士山)
         
(右側面) 富士山
                  
  大 山 道
                  
  引 又
         
(基礎)  天保十三壬寅年 九月吉日(1842)

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  手水鉢
         
(左側面) 星野権兵衛、星野新助、星野三左エ

           門、油屋源助、升屋銀蔵、升屋與吉、

           山田屋彦兵衛、菱屋文蔵、大黒屋千

           吉
         
(右側面) 足立屋與左エ門、今福屋平兵衛、鍵

           屋清左エ門、江戸屋甚左エ門、中村

           屋重蔵、鯉屋甚五郎、八百屋金右衛

           門、松屋彌左エ門、菱屋助四
         
(裏面)  文政四辛巳年十月吉日(1821)
                     
石工 卯右衛門

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○成就院
   
真言宗豊山派、元は玉蔵院末、本尊阿弥陀如来
 
 弘法大師霊場 足立八十八ヶ所之内 第八十七番
 
 奉造立庚申供養塔 元禄九丙子天 三月廿四日(1696)
 
 六地藏石幢 元禄七甲戌天 霜月五日(1694)

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○伊勢屋酒店
 
「せがい造り」(船を漕ぐために外に張り出した台のよう

 に、梁が張り出して屋根を支える形式)
  
作家石井桃子氏(明治40年3月10日~平成20年4

 月2日)は浦和に生れ、幼時を伊勢屋の斜め向かいで過ご

 した。『幼ものがたり』に当時の浦和の様子が描かれてい

 る。

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○一里塚跡
  
現在の浦和橋手前両側に一里塚があり、榎が植えられて

 いた。

○笹岡稲荷神社

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2008年4月24日 (木)

中山道浦和宿 2

○門前通り
  古くから玉蔵院の前には門前町が形成されていた。
  鈴木写真館は大正6年(1917)創業の浦和の代表的な写

    真館。昭和4年に改修された建物はしゃれた洋風建築と

  して当時評判になった。内装・機械などはNHK朝の連

  続テレビドラマ「なっちゃんの写真館」の参考モデルに

  された。


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○玉蔵院表門
  慶長16年(1611)浦和御殿の表門を拝領し、玉蔵院表

  門としていた。現在のものは23世快道の時再建した文

  化年間のもの。四脚門、総欅造り

 

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○浦和警察署跡
  現在の浦和商工ビルは、大正11年から昭和32年まで

  浦和警察署のあった所。


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○裏門通り
  かつて県庁官舎の裏門へ通じる道だったので、裏門通り

  と現在も呼ばれている。

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○老舗
  山崎屋…弘化年間(1844~48)の浦和宿絵図に「山崎屋

  平五郎蒲焼商」とある。
  須原屋…明治9年(1876)11月11日創業の書店
  酒井甚四郎商店…明治初年創業 奈良漬の製造販売

   

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○浦和市役所(町役場)跡
    市役所跡記念の碑
  この地は明治の頃、北足立郡浦和町本宿と呼ばれ同二十

  二年五月浦和町役場が開庁、昭和九年二月市制施行に伴

  い浦和市役所となり、昭和四十六年一月常盤六丁目に市

  庁舎が移転するまでの間、市政の中心地であった。
  旧仲町庁舎跡地整備事業により平成九年一月着工し、平

  成十一年十月、二十一世紀に飛翔する浦和センチュリー

  シティに生まれ変わったことを記念して、市制六十五周

  年にあたりこの碑を置く。
    平成十一年十月吉日(一九九九年)
        浦和市長 相川宗一

 浦和センチュリーシティ
  地上21階、地下3階(高さ94m)
  「浦和ロイヤルパインズホテル」他が入居
  3階に「うらわ美術館」がある。
   浦和は関東大震災後多くの文化人が移り住み、「鎌倉

  文士に浦和画家」といわれた。うらわ美術館は跡見泰、

  瑛九、川村親光、小松崎邦雄、須田剋太、高田誠寺内

  萬治郎、富本憲吉、細野稔人、増田三男、安井曽太郎、

  渡辺武夫など浦和ゆかりの作家の作品を収蔵している。

 

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 『重力環 赤・うらわ』内田晴之 2000年

 

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2008年4月21日 (月)

中山道浦和宿 1

中山道の宿であり、文教と行政の都市浦和の街を歩

いた。

○浦和駅

  明治16年(1883)7月28日、日本鉄道が上野駅~熊谷駅

  を開業した際に設された。 当時の駅は、上野、王子、浦

  和、上尾、鴻巣、熊谷である。

  昭和7年(1932)9月1日大宮~桜木町間の電車が開通した。

  現在駅構内改良工事中で、平成24年(2012)完成後はすべ

  て高架となり、

  湘新宿ラインも停車する予定である。

   

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○さくら草通り

  はじめは停車場通りといい、浦和駅と中山道を結ぶ唯一の道

  だった。後には郵便局通りといわれ、昭和57年に埼玉県で

  初めての歩行者専用ショッピングモール、 さくら草通りとし

  て整備された。

  

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○武者群像(彫刻)

  滝川毘堂(びどう)作  浦和駅前 昭和56年(1981) 

  寄贈者 井上 功

     武者群像に寄せる

   ここ武蔵は武夫のふるさと。上古、彼らは荒野に開拓の鍬

   を振い、ことあれば剣をとって勇敢に戦った。

   争乱の世には、剛健質実な気風と固い団結をもって天下に

   勇名を馳せ、星移り世は代っても、清廉な資性と、信義を

   重んじる生活信条は、伝統として此の地に息づき、今もな

   お新たなる発展の礎として光彩を放っている。

   県都浦和の表玄関、新しい駅前広場の記念像として、毘堂

   先生の力作に託す所以である。

    昭和五十六年三月吉日

      浦和市長 中川健吉

   

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○高砂小学校

  明治4年3月1日  浦和郷学校が玉蔵院に開校

  明治4年9月    浦和下宿に新校舎が建てられ移転

  明治5年8月    北足立郡浦和第一番小学校と改名

  明治10年6月   埼玉県師範学校附属小学校となる。

            (明治12年5月解除)

  明治40年4月   埼玉県女子師範学校代用附属となる。

            (大正8年3月解除)

  大正8年4月    北足立郡浦和尋常小学校となる。

  昭和7年4月1日  浦和第一尋常高等小学校と改称

  昭和9年2月11日 浦和市立第一尋常高等小学校と改称

  昭和16年4月1日 浦和第一国民学校と改称

  昭和22年4月1日 浦和市立高砂小学校と改称

  平成13年5月1日 さいたま市立高砂小学校と改称

   

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○中山道浦和宿

  中山道3番目の宿。江戸へ5里30丁、京へ129里28

  丁、大宮へ1里10丁

  本陣1、脇本陣3、旅籠15

  天保年間には273軒1230人

  上町、中町、下町に分かれていた。現在の常盤、仲町、高砂

  である。

 標柱 「中山道浦和宿」

  中山道は江戸日本橋を出発点として、終点京都まで六十九

  次あり、「浦和宿」は板橋、蕨と継いで第三宿目であった。

  今日、中山道拡幅工事による歩道設置にともない、「風格

  と落ち着きのある街」づくりを目標に、各関係者のご協力

  を頂いて歩道のモール化事業を完成した。

       平成二年三月三十一日

                埼玉県 浦和銀座誠商会

                    高砂共栄会

                    題字 今井萬里

   

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○県庁通り

  県庁表門と中山道を結んでいたので、表門通りといった。

○道路元標

  大正11年(1922)8月18日の内務省令第20号で設置さ

    れた道路元標を、昭和57年に市が復元した。ただし、元あ

  った通りに復元したかどうかは不明。通常は地上高60㎝、

    幅各25㎝、文字は「浦和町道路元標」と記載する。

   

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2008年4月 3日 (木)

京亭

鉢形城本曲輪の荒川対岸に割烹京亭がある。

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京亭は、「君恋し」「祇園小唄」などを作曲した佐々紅華が自ら図を引き、昭和8年に完成した一部2階建入母屋造りである。紅華は蔵前高等工業(現東京工大)出身というだけあってかなり凝っている。

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部屋からの眺めが素晴らしい。荒川の向うが鉢形城本曲輪跡

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          庭のカタクリ

料理はなんといっても鮎飯

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京亭は池波正太郎の「よい匂いのする一夜」(講談社文庫)にも紹介されているが、なかなかの店である。部屋は4室しかないので、予約しておいた方がよい。宿泊もできる。

埼玉県大里郡寄居町玉淀547 電話0485-81-0128 京亭   

 

  

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2008年4月 2日 (水)

藤田康邦、北条氏邦の墓

天文15年4月20日(1546)、川越夜戦で関東管領上杉(山内)憲政、上杉(扇谷)朝定、古河公方足利晴氏連合軍が北条氏康に大敗、関東の勢力図は一気に変りました。
武蔵七党猪俣党の流れを汲む天神山(長瀞町)城主藤田康邦は娘大福御前を氏康の第4子氏邦に嫁せしめ、天神山城と花園(寄居町藤田)城を氏邦に与えました。
藤田康邦は天文年間末頃(1555頃)死去したといわれます。墓は寄居町正龍寺にあります。

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氏邦はやがて山内上杉氏の拠点であった鉢形城に入城、周辺に勢力を伸ばし、後北条氏が北武蔵から上野へ進出する基礎を築きました。その後武田信玄、上杉謙信と争い、さらに本能寺の変後は真田昌幸を追って沼田城を支配下におきました。ところが氏邦の家臣沼田城代の猪俣邦憲は突如真田昌幸の属城名胡桃城を攻め取ってしまいました。秀吉はこれに激怒、小田原攻めを命じました。
天正18年6月(1590)、鉢形城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸、浅野長吉、本多忠勝ら5万の軍勢に攻囲され、6月14日に開城するにいたりました。
氏邦は前田利家に預けられ、慶長2年(1597)8月8日、鉢形開城から7年後に能登で死去しました。遺骨は家臣が持ち帰り、8月28日藤田康邦と同じ正龍寺に葬りました。なお、妻の大福御前は文禄2年5月10日(1593)に自刃したといいます。 

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