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2008年6月 1日 (日)

中山道浦和宿 4

○常盤公園(浦和御殿跡・浦和地方裁判所跡)
  江戸時代はじめ「御殿」が作られ、将軍の鷹狩などの時

 の休憩所となっていたが、慶長16年頃(1611)廃止され

 た。その後「御林」となっていた。発掘調査の結果土塁跡、

 堀跡、建物跡などが発見されている。
  明治26年浦和地方裁判所が建設された。和風の瓦葺入

 母屋造りの堂々たる建物であったが、昭和48年取り壊さ

 れた。現在残る赤レンガの垣柵と伽羅の木は当時のもの。

  昭和51年常盤公園が開園

  長沼新平(依山)の童話碑 

○「ここに浦中ありき」碑
   ここ武蔵野の鹿島台の地に、埼玉県立中学校が誕生した
   明治二十八年に県立第一尋常中学校の設置告示、翌年開
   浦和中学校の前身である。
   昭和十二年領家へ移転、現在の浦和高等学校となった。
   創立百年を迎え、発祥の地に記念碑を建立す。
    平成七年十月五日
      埼玉県立浦和高等学校
      創立百周年記念事業実行委員会


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○さいたま市役所
  元埼玉県師範学校の跡地
  昭和46年1月 浦和市役所が現在地に移転

  昭和51年2月 現在の庁舎(地上11階地下2階建て)
          
完成
  平成13年5月1日 合併によりさいたま市役所となる
  トルーカの鐘 姉妹都市メキシコのトルーカ市から贈ら
         れた鐘

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  「埼師跡」埼玉県師範学校跡記念碑
  「埼玉サッカー発祥の地」碑
    製作 島田忠恵  デザイン 鈴木国平
   「埼玉サッカー発祥の地碑文」
     埼玉のサッカーは明治四十一年六月に
    埼玉師範(現在の埼玉大学)ではじまり、
    多くの指導者が浦和を中心に教師として
    赴任したことにより、普及・発展をとげ
    ました。
    ここ浦和市役所は埼玉師範の跡地に建
    てられたものであり、正に埼玉サッカー
    発祥の地であります。
     未来に向けて、サッカーの街づくりを
    より一層推進するため、埼玉師範が全国
    大会で初優勝を飾ってから六十周年目
    の本年、埼玉サッカー発祥の地の記念碑を
    建設いたしました。
    平成九年四月
        浦和市長 相川宗一

○北足立郡役所跡
  明治11年(1891)7月22日郡区町村編成法により足

 立郡のうち埼玉県部分が北足立郡となった。明治12年か

 ら「市民会館うらわ」の地に北足立郡役所が置かれた。

○玉蔵院
  新義真言宗、京都醍醐三宝院の末、現豊山派 宝珠山延

 命寺と号する。
  弘仁11年(820)弘法大師一宇を建立し、自ら地蔵尊の

 像を彫刻して安置したのが始まりという。
  その後しばしば火災にかかり旧記を失った。
  文明10年(1478)印融伽藍を再建し、醍醐三宝院の末

 とし、道教の法脈を相承した。玉蔵院ではこの印融を初代

 としている。
  永禄12年12月(1569)火災により伽藍焼失
  元亀3年(1572)第4世宥盛伽藍を再建
  天正19年11月(1591)家康より10石の朱印地を寄

 進された。


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  石柱「守護侍不入」

   裏面に「天正十九年十二月日」とある。家康寄進状の

 「寺中可為不入者也」を受けて寺で建てたものであろう。

 「守護使不入」の間違いではないかという。また、現存の

 ものは後世のものではないかという。


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  元禄12年12月(1699)火災により伽藍すべて焼失
  元禄14年6月(1701)第12世宥尊本堂上棟(現存
 の
本堂)
  宝永7年11月(1710)第12世宥尊大日如来を造立
 
て本尊とした。
  安永9年2月(1780)地蔵堂建立 弘法大師自作とい
 わ
れる平安期の地蔵菩薩安置。4月23日のみ開帳
  表門(山門) 前記
  鐘楼 元は表門と本堂の中位にあり、鐘楼門となって
 い
た。鐘は戦後新鋳。
  二十三夜堂 調神社別当月山寺は玉蔵院が兼帯してき
 た
が、明治2年廃寺となり、本尊勢至菩薩が玉蔵院境内
 の神
主寺に移され、その堂が二十三夜堂と呼ばれるよう
 
になった。現在勢至菩薩は地蔵堂に安置されている。
  墓地は昭和10年、太田窪(原山4丁目)に移転され
 た。
  大施餓鬼 関東三大施餓鬼の一つとされ、毎年8月2
 3
日に行われる。
  枝垂桜

○埼玉県師範学校跡(埼玉会館・県立図書館)
  師範学校は明治11年、埼玉会館の地に移転してきた。

 木造二階建ての洋風建築で、明治天皇の地方巡幸の際行
 在
所として使用されるにあたり、太政大臣三条実美
 「鳳翔
閣」と名付けた。その後師範学校は現在のさいた
 ま市役所
の地に移転。鳳翔閣は女子師範学校の校舎とな
 った。鳳翔
閣は大正14年に北に移動されて改装され、
 県立図書館と
なったが、昭和34年老朽化のため取り壊
 され、中央部分
だけがさいたま市立浦和博物館の建物と
 して復元されてい
る。

 「行在所記念之碑」明治40年
 「浦和一女発祥の地」碑
   明治三十三年、この地に埼玉縣髙等女学校が誕生、
  翌
年、埼玉縣女子師範学校に併置され、埼玉縣立浦和
  髙等
女学校と改称、女子教育の中核をなす。
   明治四十三年浦和町字元宿台(現浦和市岸町)へ移
 
 転、その後女子師範から分離して、現在の埼玉県立浦
  和第一
女子高等学校の前身となる。
   創立百周年を記念し、ここ発祥の地に碑を建立する。
   平成十二年十一月四日
   埼玉県浦和第一女子高等学校
    創立百周年記念事業実行委員会

  埼玉会館は昭和41年、前川國男設計で再建

○埼玉県師範学校、埼玉県医学校発祥の地
  東和銀行浦和支店の地に、明治7年師範学校が、明治
 8
年医学校が開設された。
  師範学校は明治11年に埼玉会館に地に移転、医学校
 は
明治12年に廃校になった。
 「埼玉県師範学校、埼玉県医学校発祥之地」の碑が建て
 ら
れている。

○老舗
  割烹千代田
  満寿家(天然鰻を紀州備長炭で焼き上げている)
  青山茶舗 楽風(らふ)


○調神社
  祭神 天照大御神、豊宇気姫命、素盞鳴命
  延喜式神明帳に載せられている足立郡四座の一つ。
  由来には諸説がある。天保10年(1839)参拝した平
 
篤胤は、『調神社考証』で、伊勢神宮に納める初穂を
 入れ
る倉庫から発展した神社とした。この説は鳥居が
 いこと
と併せかなり流布している。『浦和市史』は、百
 済からの
渡来人調連(つきのむらじ)・調吉士伊企儺
 (つきのきし
いぎな)から推して調氏一族が祀った神
 ではないかとし、
鎮座地の岸は吉士から生じたのではな
 いかとしている。
  中世、月待供養(月の13日、17日、23日などの
 
に、月の出を待って供物を供え、共に飲食し、月を拝
 み、
無病息災を祈った)が盛んになると、月天子のい
 月宮殿
と調宮が一体と考えられるようになった。このた
 め月天子
の使いである兎の彫刻などが置かれるようにな
 った。さら
に調神社の別当寺は月山寺という名で、月天
 子の本地仏で
ある勢至菩薩が本尊として置かれていた。
 慶安2年8月の
家光による寄進状にも「月読社」と書か
 れ、幕末まで踏襲
された。
  本殿 安政6年(1859)竣工。本殿・幣殿・拝殿が連
 続
している。拝殿に寄進額が掲げられているが、合計1
 68
3両4分である。(浦和宿500両)


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  旧本殿(現境内社稲荷神社) 享保18年(1732)建立。

 一間社流造り


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