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2008年4月24日 (木)

中山道浦和宿 2

○門前通り
  古くから玉蔵院の前には門前町が形成されていた。
  鈴木写真館は大正6年(1917)創業の浦和の代表的な写

    真館。昭和4年に改修された建物はしゃれた洋風建築と

  して当時評判になった。内装・機械などはNHK朝の連

  続テレビドラマ「なっちゃんの写真館」の参考モデルに

  された。


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○玉蔵院表門
  慶長16年(1611)浦和御殿の表門を拝領し、玉蔵院表

  門としていた。現在のものは23世快道の時再建した文

  化年間のもの。四脚門、総欅造り

 

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○浦和警察署跡
  現在の浦和商工ビルは、大正11年から昭和32年まで

  浦和警察署のあった所。


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○裏門通り
  かつて県庁官舎の裏門へ通じる道だったので、裏門通り

  と現在も呼ばれている。

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○老舗
  山崎屋…弘化年間(1844~48)の浦和宿絵図に「山崎屋

  平五郎蒲焼商」とある。
  須原屋…明治9年(1876)11月11日創業の書店
  酒井甚四郎商店…明治初年創業 奈良漬の製造販売

   

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○浦和市役所(町役場)跡
    市役所跡記念の碑
  この地は明治の頃、北足立郡浦和町本宿と呼ばれ同二十

  二年五月浦和町役場が開庁、昭和九年二月市制施行に伴

  い浦和市役所となり、昭和四十六年一月常盤六丁目に市

  庁舎が移転するまでの間、市政の中心地であった。
  旧仲町庁舎跡地整備事業により平成九年一月着工し、平

  成十一年十月、二十一世紀に飛翔する浦和センチュリー

  シティに生まれ変わったことを記念して、市制六十五周

  年にあたりこの碑を置く。
    平成十一年十月吉日(一九九九年)
        浦和市長 相川宗一

 浦和センチュリーシティ
  地上21階、地下3階(高さ94m)
  「浦和ロイヤルパインズホテル」他が入居
  3階に「うらわ美術館」がある。
   浦和は関東大震災後多くの文化人が移り住み、「鎌倉

  文士に浦和画家」といわれた。うらわ美術館は跡見泰、

  瑛九、川村親光、小松崎邦雄、須田剋太、高田誠寺内

  萬治郎、富本憲吉、細野稔人、増田三男、安井曽太郎、

  渡辺武夫など浦和ゆかりの作家の作品を収蔵している。

 

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 『重力環 赤・うらわ』内田晴之 2000年

 

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2008年4月21日 (月)

中山道浦和宿 1

中山道の宿であり、文教と行政の都市浦和の街を歩

いた。

○浦和駅

  明治16年(1883)7月28日、日本鉄道が上野駅~熊谷駅

  を開業した際に設された。 当時の駅は、上野、王子、浦

  和、上尾、鴻巣、熊谷である。

  昭和7年(1932)9月1日大宮~桜木町間の電車が開通した。

  現在駅構内改良工事中で、平成24年(2012)完成後はすべ

  て高架となり、

  湘新宿ラインも停車する予定である。

   

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○さくら草通り

  はじめは停車場通りといい、浦和駅と中山道を結ぶ唯一の道

  だった。後には郵便局通りといわれ、昭和57年に埼玉県で

  初めての歩行者専用ショッピングモール、 さくら草通りとし

  て整備された。

  

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○武者群像(彫刻)

  滝川毘堂(びどう)作  浦和駅前 昭和56年(1981) 

  寄贈者 井上 功

     武者群像に寄せる

   ここ武蔵は武夫のふるさと。上古、彼らは荒野に開拓の鍬

   を振い、ことあれば剣をとって勇敢に戦った。

   争乱の世には、剛健質実な気風と固い団結をもって天下に

   勇名を馳せ、星移り世は代っても、清廉な資性と、信義を

   重んじる生活信条は、伝統として此の地に息づき、今もな

   お新たなる発展の礎として光彩を放っている。

   県都浦和の表玄関、新しい駅前広場の記念像として、毘堂

   先生の力作に託す所以である。

    昭和五十六年三月吉日

      浦和市長 中川健吉

   

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○高砂小学校

  明治4年3月1日  浦和郷学校が玉蔵院に開校

  明治4年9月    浦和下宿に新校舎が建てられ移転

  明治5年8月    北足立郡浦和第一番小学校と改名

  明治10年6月   埼玉県師範学校附属小学校となる。

            (明治12年5月解除)

  明治40年4月   埼玉県女子師範学校代用附属となる。

            (大正8年3月解除)

  大正8年4月    北足立郡浦和尋常小学校となる。

  昭和7年4月1日  浦和第一尋常高等小学校と改称

  昭和9年2月11日 浦和市立第一尋常高等小学校と改称

  昭和16年4月1日 浦和第一国民学校と改称

  昭和22年4月1日 浦和市立高砂小学校と改称

  平成13年5月1日 さいたま市立高砂小学校と改称

   

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○中山道浦和宿

  中山道3番目の宿。江戸へ5里30丁、京へ129里28

  丁、大宮へ1里10丁

  本陣1、脇本陣3、旅籠15

  天保年間には273軒1230人

  上町、中町、下町に分かれていた。現在の常盤、仲町、高砂

  である。

 標柱 「中山道浦和宿」

  中山道は江戸日本橋を出発点として、終点京都まで六十九

  次あり、「浦和宿」は板橋、蕨と継いで第三宿目であった。

  今日、中山道拡幅工事による歩道設置にともない、「風格

  と落ち着きのある街」づくりを目標に、各関係者のご協力

  を頂いて歩道のモール化事業を完成した。

       平成二年三月三十一日

                埼玉県 浦和銀座誠商会

                    高砂共栄会

                    題字 今井萬里

   

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○県庁通り

  県庁表門と中山道を結んでいたので、表門通りといった。

○道路元標

  大正11年(1922)8月18日の内務省令第20号で設置さ

    れた道路元標を、昭和57年に市が復元した。ただし、元あ

  った通りに復元したかどうかは不明。通常は地上高60㎝、

    幅各25㎝、文字は「浦和町道路元標」と記載する。

   

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2008年4月 3日 (木)

京亭

鉢形城本曲輪の荒川対岸に割烹京亭がある。

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京亭は、「君恋し」「祇園小唄」などを作曲した佐々紅華が自ら図を引き、昭和8年に完成した一部2階建入母屋造りである。紅華は蔵前高等工業(現東京工大)出身というだけあってかなり凝っている。

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部屋からの眺めが素晴らしい。荒川の向うが鉢形城本曲輪跡

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          庭のカタクリ

料理はなんといっても鮎飯

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京亭は池波正太郎の「よい匂いのする一夜」(講談社文庫)にも紹介されているが、なかなかの店である。部屋は4室しかないので、予約しておいた方がよい。宿泊もできる。

埼玉県大里郡寄居町玉淀547 電話0485-81-0128 京亭   

 

  

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2008年4月 2日 (水)

藤田康邦、北条氏邦の墓

天文15年4月20日(1546)、川越夜戦で関東管領上杉(山内)憲政、上杉(扇谷)朝定、古河公方足利晴氏連合軍が北条氏康に大敗、関東の勢力図は一気に変りました。
武蔵七党猪俣党の流れを汲む天神山(長瀞町)城主藤田康邦は娘大福御前を氏康の第4子氏邦に嫁せしめ、天神山城と花園(寄居町藤田)城を氏邦に与えました。
藤田康邦は天文年間末頃(1555頃)死去したといわれます。墓は寄居町正龍寺にあります。

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氏邦はやがて山内上杉氏の拠点であった鉢形城に入城、周辺に勢力を伸ばし、後北条氏が北武蔵から上野へ進出する基礎を築きました。その後武田信玄、上杉謙信と争い、さらに本能寺の変後は真田昌幸を追って沼田城を支配下におきました。ところが氏邦の家臣沼田城代の猪俣邦憲は突如真田昌幸の属城名胡桃城を攻め取ってしまいました。秀吉はこれに激怒、小田原攻めを命じました。
天正18年6月(1590)、鉢形城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸、浅野長吉、本多忠勝ら5万の軍勢に攻囲され、6月14日に開城するにいたりました。
氏邦は前田利家に預けられ、慶長2年(1597)8月8日、鉢形開城から7年後に能登で死去しました。遺骨は家臣が持ち帰り、8月28日藤田康邦と同じ正龍寺に葬りました。なお、妻の大福御前は文禄2年5月10日(1593)に自刃したといいます。 

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2008年4月 1日 (火)

玉淀の文学碑

埼玉県寄居町荒川(通称玉淀)縁には、寄居町ゆかりの人々の文学碑が立ち並んでいます。
玉淀駅側からいくつか紹介します。

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 これは水天宮脇にある「石澤無腸」句碑

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  水天宮は水難よけ、安産、子育てに霊験あらたかといいます。
 8月第1土曜日の玉淀水天宮祭は花火と舟山車の万灯が見事だそうです。

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 宮沢賢治歌碑 賢治は盛岡高等農林2年生の時に寄居町を訪れました。

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      草合歓(くさねむ)の歌碑

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          菅谷幽峰碑

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  これは、鉢形城本曲輪の田山花袋詩碑

 

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