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2007年4月 7日 (土)

初鹿野信興墓石

さいたま市北区土呂町1510 地蔵堂の前に初鹿野信興墓石がある。初鹿野信興は土呂村領主であり、目付、浦賀奉行、江戸北町奉行になった人である。本墓は牛込宝泉寺にあったが、宝泉寺は移転しており、現在どうなっているのか調査していないのでわからない。

苔むしており判読困難であるが、黒須元治氏編『大砂土史談』に和訳がでていたのでこれを参考にし、一部推測して読んでみた。

〔家紋・丸に花菱〕従五位下前河州刺史源朝臣初鹿野信興墓
(右側面)
  其先人王五十六代清和皇帝十代甲陽之守護武田
  太郎義貞也七代奥州太守伊豆信氏三男従五位下
  薩州大守初鹿野公信之嫡孫初鹿野信昌後改昌吉
  仕於信玄勝頼両君功名冠於諸士後仕於
(裏面)
  御當家屢々以有戰功恩賜武陽足立土呂郷以天年終
  然後信吉昌次信次信安信定信彭継之信興者豊
  州刺史依田政次三男也始號又八宝暦十二壬午八月四日
  後廟依台命継初鹿野之家號傳右衛門為小普
  請同八辛卯正月二十三日為御小姓組安永八己亥正月
  十二日在御使番之職仕於布衣天明二壬寅六月十四日
  為御目付之職同七丁未八月二十六日為浦賀奉行之職
  同八戊申九月十日為町奉行之職仕於従五位下河州刺史
(左側面)
  寛政三辛亥十二月二十日行歳四十八歳以病卒葬於(1791)
  東都法泉精舎號儀興院殿仰運源喜大居士
  土呂郷者以累世墳墓之地故家士鈴木儀甚松永
  義知受命以建之矣
(基礎正面)
     鈴木□十良
        諱 儀甚
  家士
     松永孫三良
      諱 義知

*松永孫三郎家(新見家)は初鹿野氏とともに甲州から移転してきたといわれ、代々土呂村の名主をしていた。家士として扱われていたことがわかる。鈴木儀甚とはどのような人であったのか。

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浄職院筆子塔

浄職院墓地(さいたま市北区土呂町2-84-1)にある住職墓地には筆子塔が6基あるが、そのうち1基は墓石の右奥肩部が脱落し、左側面は剥落して破片が下に落ちてしまっている。
破片を拾い集め読んでみた。

(正面)        不
  権大僧都法印憲韶和尚生
            位
(右側面)
  文化五戊辰年五月三日(1808)
(左側面)
  施主土呂村
    筆子中
(背面)
  武刕川越三保谷六郷村生
       憲韶俗名新之丞行年
          三十五□


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このように風化し、脱落・剥落してしまっているものを簡単に補修できる方法はないものであろうか。

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2007年4月 5日 (木)

石橋供養塔 2

前回石橋供養塔について記載したところ、須田周一氏「足立埼玉新四国八十八ヶ所札所」(『大宮の郷土史第11号』所収)の七十八番永光山浄職院の項に、「市営球場の東側を流れる芝川の橋のたもとに、二基の石橋供養塔が建っている。見沼開拓後、大宮宿に伝馬助郷を割り当てられた近郷諸村の住人は、大宮宿へ行くのに上尾境を通り、見沼を遠回りしなければならなかった。安永六年(一七七七)同院住職了円が、諸村を説いて石橋をかけた供養塔である。」と書いてあると指摘を受けた。

早速出かけていって再度調べてみた。了円の文字はどこにも見えなかったが、正面の「石橋供養塔」の「塔」の字のすぐ右下に前回は見落としていたが、「土」の字が書いてあった。その下はコンクリートで固められていてみえないが、「土呂村願主了圓」などと書いてあったのかもしれない。

ご教示感謝する。
なお、土呂地蔵堂前にある安永九年二月の西国坂東秩父巡拝塔に、土呂村願主了圓とある。

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2007年4月 4日 (水)

石橋供養塔

岩槻道見沼中悪水(芝川)に架かっていた石橋の供養塔(さいたま市大宮区)を改めて調べてみた。

〇石橋供養塔(隅丸角柱)
 (正面)(□以下はコンクリートに埋り見えない)

        土□…
   石橋供養塔
 (右側面)
   土呂村  薄田仲右衛門
   同 村  小嶋治兵衛
   大宮宿  北沢甚之丞
   堀之内村  岩井惣右衛門
 (左側面)(□はコンクリートに埋り見えない)
    助成村  土手宿  大成□(村)
   大和田村  砂村   堀嵜□()
   蓮沼村   中丸村  本郷□()
   堀之内村  天沼村  大宮□(宿)
   與野町   岩附宿  高鼻□()
 (裏面)(□はコンクリートに埋り見えない)
           世話人
   安永六年丁酉七月  小嶋平兵□(衛)(1777)
             松永孫三□()

〇石橋再建供養塔(山状角柱)
  (正面)
    石橋再建供養塔 村中
  (右側面)
          風渡野村  深作村 大和田村
   市宿町    膝子村  小深作村 セ 戸山八右エ門
   久保宿町   中川村  嶋  村   栁沢安左エ門
   加倉村    中野村  堀崎村    淺子次兵エ
 林道石 工    中丸村  砂  村 ハ 細沼傳右エ門
   宮ヶ谷塔村  上蓮沼村  丸ヶ崎村    同 孫兵エ
   宮下村    下蓮沼村  下瓦葺村  人 嶋村八良兵エ
  (右側面下段)
   土呂村新田方
   世 川嶋佐右エ門
   話 秋山弥左エ門
   人 川嶋藤兵エ
  (左側面)
   大宮宿
      宮  町  土手宿村  串引村   上加村
      大門町   堀之内村  原並木村  下加村
      中  町  上天沼村  前並木村  上加茂宮村
      下  町  下天沼村  上小村田村 下加茂宮村
      吉鋪町   上大成村  落合村   本郷村
   一宮角井駿河守  中下大成村 与野町 弥四郎
  (左側面下段)
   土呂本田方セ 松永孫三郎

       ハ  吉田伊兵エ

       人 薄田新右エ門 嘉永五子(1852)

   同村   セ 小嶋平兵エ

       ハ  同 太兵エ

       人 田中与兵エ  四月吉日

   同村     大野岡右エ門

      

再建供養塔の林道石工は岩槻の石工で、大和田近辺の石製品はこの林道石工のものが多い。土呂本田方の松永・吉田・薄田氏は初鹿野傳右衛門(河内守)領地の者、小嶋・田中氏は初鹿野次郎左衛門(勘解由)領地の者、大野氏は伏見氏領地の者なので、わざわざ同村、同村と三つに区分しているのではないか。

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2007年4月 1日 (日)

高林寺本堂棟札

高林寺(さいたま市北区本郷町1398 横田英隆住職)で、数年前、本堂天井裏より棟札が発見された。案内書等にもまだ記載されていないので紹介する。

(表面)   天保六未星(1835)
    奉建立本堂一宇悉地成就之所
       十月吉祥日
(裏面)
      發願主新井杢右エ門         礒部彌四郎
           妻せん      棟梁     惟郷
當寺中興法印龍宣      總檀中
                    杣棟梁前場五郎兵衛
      世話人嶋村太右エ門 渡辺権右エ門西川政治良
         蓮見淺右エ門 同 定右エ門蓮見勝右エ門


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*悉地は辞書によると梵語のsiddhi成就の意で、密教の修行によって成就した妙果のことという。
*高林寺は文政9年(1826)火災により焼失。その再建時の棟札である。

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