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2007年3月 1日 (木)

土塁

さいたま市見沼区大和田町に、大和田村領主伊達氏の陣屋跡とされている所がある。土塁に囲まれており、埼玉県重要遺跡に指定されている。
なぜそこが陣屋跡とされたのか、明確な根拠が見当たらない。しっかりした土塁があるので陣屋跡に違いないと先入観を持ち、そこに仮説を積み上げていったのではないかと思う。

ほとんど注目されていないが、実は土塁は見沼田圃を挟んだ対岸の北区土呂町にもある。大和田の土塁とそっくりである。見沼田圃の周辺を探せば他にもあるのではないか。

土塁は陣屋跡というような特別な施設ではなく、風除けとして作った一般的なものだったのではないか。

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コメント

物申したくて大和田陣屋の項目から飛んで着ました。

ちょっと詰めが甘くないですか?

『当時の軍事情勢を考えると寿能城はほとんど問題とされておらず、豊臣・徳川軍に攻撃された様子も無い。』
落城秘話を鵜呑みにすることを出来ないのは承知ですが、丸無視ですか?
それでは、豊臣・徳川軍は岩槻城を落城させた後、寿能城を無視して前進しましたか?

南にある蕨城や戸塚城などの細かい城を、容赦無く潰していったのに?
更には、小田原征伐初戦で降伏を許した事に、秀吉が『手ぬるい!』と叱責した事前状況もあります。
最近有名になりつつある、行田の忍城攻略に討伐軍がこだわったのも、そういった理由があったからとされます。

埼玉内に留まらず、千葉などにおいても、細かい支城が『手柄と見なさない』数程に落城させられた戦です。

岩槻城と同じ様に、玉砕覚悟で最期まで篭城した城です。
よりにもよって地元民が、適当な事を言って貶すのは論外でしょう。

このせいで、主題の大和田陣屋の記述も疑わしく思えてきてなりません。

投稿: 天庵 | 2010年4月23日 (金) 09時10分

天庵 様
HPを読んでいただきありがとうございます。
「寿能城はほとんど問題とされておらず」と書いた部分にこだわっておられるようなので、少し説明します。秀吉は事前に後北条方の城を調べていますが、寿能城はでてきません。岩付城の支城と見ていたわけです。秀吉の東・北武蔵の攻撃目標は河越城、松山城、鉢形城、忍城で、岩付城が加わりました。このように主要城の攻撃のみ考えていた秀吉は、下総上総の端城の接収にあたった浅野長吉勢に対して怒ったわけで、東・北武蔵では端城は攻撃していません。岩付城を攻めるためにどのルートを通ったのか明らかではありませんが、浦和郷に秀吉禁制取次の証状を発し、加藤権太兵衛(星野)が岩付城への案内をした褒美に浦和宿の市場開設を許されたとされているので、寿能城の近くを通った可能性はありますが、攻撃した様子はありません。そもそも寿能城は本丸の位置さえ定かでありません。戸塚城も攻撃されたとは考えられません。蕨城はこの時代に存在したことさえ疑問です。寿能城主ら主力は岩付城主氏房に従って小田原城に籠城したので寿能城にどのくらいの人数がいたのかわかりませんが、必死の覚悟で城を守ろうとしたであろうことは想像がつきます。それと客観的事実とは別です。意見を述べられる場合は史料に基づいて冷静にお願いいたします。

投稿: 筆者 | 2010年5月 1日 (土) 18時40分

資料さえあれば覆されるってだけの話で終了か。

どうなんだか。最近は各城郭研究の状況も以前と変わってきているようだから、『資料的証拠』ではなく『物的証拠』が出てるかもね。

投稿: | 2011年2月 6日 (日) 14時24分

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