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2006年11月 6日 (月)

土呂 小島家長屋門

11月3日、大和田・紅葉丘地区会の見沼散策で、土呂町2丁目の小島家を訪れた。小島(小嶋)家は「おじま」という。土呂村の名主を勤めた家で、代々「平兵衛」と名乗った。

母屋は改築されたが、長屋門は昔のままである。

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この長屋門の中の向って右側には、高野長英が蛮社の獄(文政8・1825年の異国船打払い令に対する幕政批判への取締り)で永牢中の弘化2年(1845)に、出火に乗じての逃亡中、片柳村の漢方医井上弥十郎の紹介で長英を匿ったという6畳間がある。長英から贈られたというギヤマン皿と洋皿が残されている。

長屋門の向って左側には、明治になってからだが、高野佐三郎(秩父生まれ、埼玉県巡査教習所、埼玉師範学校の武術教授等歴任、剣道発展の為に尽力し、剣聖といわれた)の道場明信館の分館が置かれていた。和十郎が剣に優れ、千葉道場に通っていた関係からであろう。

和十郎は早くから自由民権思想に傾倒。後の衆議院議長・文部大臣大岡育造を土呂学校の教員に推薦し、長英を匿った同じ部屋に住まわせ、近郷の青年達を集め政談会を催した。この政談会には、後の首相清浦圭吾、県会議長大島寛爾、埼玉自由倶楽部の矢部忠右衛門らが参加した。和十郎は肺を患い、志半ば30歳で亡くなった。

和十郎の子が善作(明治9年~昭和12年)である。善作は早くから自由党に加盟し、政治運動に参加。大砂土村助役、村長、県会議員、衆議院議員を歴任した。盆栽村を誘致し、農産業改良にも尽力して、茶、さつま芋、椎茸栽培等を奨励した。書家としても活躍し、「清洲」と号した。各地に善作の書いた碑が残されている。大和田の鷲神社にも2基ある。大宮・倉屋敷稲荷神社の鳥居の神額も善作の書である。

長英、育造が住まい、和十郎が剣を振るい、善作が農業改良に工夫をこらした長屋門をじっと眺めていると、これらの人々の熱い思いが伝わってくるような気がした。

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コメント

はじめまして。先日の散策で行き着いた土呂の「神明社」で
見かけた石碑について、こちらのサイト内のページにリンクを
貼らせていただきましたので、事後となり恐縮ですが、
ご連絡いたします。

ところでこの神明社の石碑ですが、「日露戦役凱旋記念碑」は
「小嶋善作書」、その傍らの「報徳碑」では「小島善作書」と
なっております。
こちらの記事にも「小島(小嶋)家は「おじま」という」と書かれて
ますが、元来は「小嶋」姓だが、わかりやすい「小島」を使っていた
とか、何か事情があるのでしょうか?

投稿: 暗之云 | 2008年8月21日 (木) 00時13分

小島善作と小嶋善作について、知っている範囲でお答えします。
この小島(小嶋)家は、足立郡土呂村の名主を勤めていた家で、当主は代々平兵衛を名乗っていました。江戸時代の公式文書には姓を記載していないのではっきりは分かりませんが、石に刻まれたものは小嶋となっています。明治以降については、明治10年8月の神明社修繕絵図に小島和十郎とあり、またご指摘のように石碑にも小嶋善作、小島善作と両方使用しています。善作の表札が残っていますが、小島善作となっています。墓石も小島善作です。現在は小島を使っています。元々嶋と島は同字であり(辞書によっては嶋を古字、あるいは異体字としています)、元来は小嶋を正式には使用していたが、小島も使っていた。現在は小島を正式な字として使っているというところでしょうか。なお、土呂村(現さいたま市北区土呂)には小島を姓としている家は多いのですが、平兵衛家は「おじま」といい、他は分家筋でも「こじま」といっているようです。

投稿: 織本重道 | 2008年8月22日 (金) 11時37分

丁寧にご回答くださいまして、ありがとうございました。

投稿: 暗之云 | 2008年8月26日 (火) 00時42分

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