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2006年9月18日 (月)

大和田 下屋敷

 『大宮市史』第3巻上(昭和52年3月)に、「大和田陣屋は、領主伊達氏の中世以来の陣屋があった地に建てられた。…元禄十一年(1698)「林畑御縄入御検地帳写」…にも、「下屋敷山林畑」の記載があるので、江戸時代初期には、在地に下屋敷または陣屋を置き直接支配をしていたものと考えられる。」「下屋敷の存続期間は不明であるが、御林の開発された元禄十一年(1698)以前にすでに廃止されていたことは確実である。」「江戸の上屋敷の存在から…」「伊達氏の場合も江戸と在地に住居をもっていたと考えることもできるのである。」とある。

 しかし、江戸の住居を上屋敷、支配地大和田村に置いた住居?を下屋敷というようなことがあったのであろうか。

 そこで、元禄11年の「林畑御縄入御検地帳写」を調べてみた。

 大宮市文化財調査報告書第4集『浅子家文書目録資料抄録』(昭和47年1月)にこの文書が活字で収録されており、これによると、「□下屋鋪山林畑」が3ヶ所出てくる。この□の字は判読出来なかったためと思われる。

 大宮市文化財調査報告書第24集『大和田村古文書(資料抄録)』(昭和63年3月)にも収録されており、こちらには同じ部分が、「桂下屋鋪山林畑」とされている。□の部分を「桂」と読んだわけである。

 こうみると、大宮市史執筆の資料として使用したこの文書の、最初の□の部分がどういうわけか抜け落ちてしまい、あるいは無視して、2字目からの下屋鋪山林畑から「下屋敷」があったと考えたものと思われる。

 「桂下屋鋪山林畑」が理解できないので、今回、原本を見せていただいた。確かに判読しにくい字であるが、「桂」とは読めない。おそらく「椿」という字であろう。すなわち、「椿下屋鋪山林畑」と読むと思われる。

 こう読むと大きな問題がでてくる。大和田には「椿」という字名があり、大和田の西端の、旧岩槻道、現大和田公園通りの南側をいう。小林氏所蔵の大和田村絵図には「ツバキ下」と記載されたところがあり、その脇に「伊達正左衛門」と記されている。

 すなわち、「椿下屋鋪山林畑」は、「椿下の屋鋪山」が開墾され林畑になった所ということであろう。「下屋敷」は文書の読み違えといっていいかと思う。

 そして、この文書と大和田村絵図を合わせて考えれば、領主伊達氏の屋敷(陣屋)がこの椿下にあったといえる。陣屋は旧岩槻道北側の字名「本村」の土塁に囲まれた一画であるというのが通説になっている。ホームページ「大和田だより-温故知新-」の「大和田陣屋」の項で述べたが、このことに以前から疑問をもっており、陣屋は南側の椿にあったと思っている。この文書はこれを裏付ける資料の一つかと思う。

 なお、この文字を「椿」と読むことに対しては、ぜひご意見をお寄せいただきたい。

  

minumaoowada@yahoo.co.jp

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コメント

大和田下屋敷に関する記載、興味深く読ませていただきました。椿と読む件に関してですが、実は私が母から相続した土地が下屋敷近くにあり、その土地を母方の祖父、母がつばきの土地と読んでいました。椿が植わっていたわけでもなくなぜそう呼ぶか子供のころからずっとわかりませんでしたがこの記載を読んで代々続く土地の名と考えれば納得ができました。ちなみに母方性は野崎です。貴重なお話をネット公開していただきありがとうございました。 

投稿: 椿の土地 | 2010年4月 9日 (金) 16時44分

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