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2006年5月 4日 (木)

船橋通り

戦国時代には、大和田村と見沼低地を越えて対岸の寿能城を結ぶ道が通っていた。ところが、寛永6年(1629)、関東郡代伊奈半十郎忠治の見沼溜井築造により、この道は水没してしまった。この道が現在の大和田公園通り、かつての岩槻道と同じところを通っていたことは、大和田村絵図に見沼と接したところに「古道留ル」と書かれていることから確認できる。享保12年(1727)井沢弥惣兵衛為永による見沼溜井干拓によって再び道が作られたが、この間大和田村から大宮宿へはどの道を通って行っていたのであろうか。享保16年11月の、遊馬村土屋村の大和田村への大宮宿助郷差替願に対する反論の文書には、新田作場道ができたが不丈夫で、雨天の際は船橋通りの遠路を廻るより外は無いと書かれており、船橋通りを通っていたと思われる。船橋通りというのは、ニューシャトル原市駅の南側からJR宮原駅方面へ通っている道である。途中芝川に架かっている橋を「船橋」といい、国道16号線東大宮バイパス交差点脇の「むさしのグランドホテル」前には「船橋」というバス停留所がある。バイパスの反対側には「和食処ふなばし」という食堂もある。この辺りまで来ないと見沼溜井を越せなかったわけである。

4月17日には歩いて、5月4日には自転車で大和田から船橋まで行ってみたが、かなり遠い。大和田村が岩槻圏に属していた理由の一端でもあろう。

なお、船橋という地名がいつついたのかはわからない。「和食処ふなばし」の塀に、「船橋の名の由来」という説明板が掲げられているが、「岩槻巷談」の「吉野原合戦之事」の一部を修正したもののようで、そのまま史実とは考えられないので写真のみ掲げる。

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