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2006年5月12日 (金)

東部水利組合導水管

さいたま市立大砂土東小学校の東隣に、通称代官屋敷といわれていた広大な敷地を有した家があった(さいたま市見沼区大和田町2-1555-1他)。苗字から類推すると砂村系の方かと思われる。敷地のほとんどに樹木が植わっていた。ところが、突然木が切られ、あっと云う間に宅地造成が始まった。緑が失われたのはまことに残念なことであるが、造成現場を見たら、大変興味あるものが出ていた。内径50cm程のヒューム管である。私が見た時にはすでに引き抜かれた後だったが、はっきりとその跡が残っており、その両端、西側(小学校側)の道路ぎわと東側の家ぎわの所には管の口が見えていた。この管の線を西側に延ばすと大砂土中学校の南端に繋がり、東側に延ばすと見沼区役所西北の堀崎中央公園辺に至る。

おそらくこれは、河田捷一氏が「碑文に見る用水確保の努力」(『大宮の郷土史』第22・23合併号 大宮郷土史研究会 2004.3)で報告されている、東部水利組合の導水管であろう。

大谷、染谷、東新井方面の摘田地帯は、昭和15・16年の大旱魃で甚大な被害を受けたため、安定した水の供給確保が望まれた。そこで、旧七里村長吉田正治(芳雨)が中心となり干害応急施設共同施工組合(東部水利組合)を設立。芝川の神明橋近くに堰を設け、揚水機を設置してポンプアップ。大砂土中学校の南側を通り、大砂土東小学校のところで二手に別れ、一方は大和田駅西を通り、現在の青葉団地から海老沼小学校方面へ、もう一方は、現在の見沼区役所脇から東宮下団地、思い出の里市営霊園方面へ通水した。既存の水路を利用したというので、前者は海老沼落の、後者は加田屋川のそれぞれ上流部を利用したものと思われる。

宅地造成で現れたヒューム管は、後者の導水路の一部であろう。

神明橋の袂には、吉田正治の功績と、揚水機設置敷地を提供した島村裕一(香圃)を讃える碑が建てられていたが、現在は吉田碑は大谷の氷川神社境内に、島村碑は大和田天神境内に移設されている。

島村香圃頌徳碑には次のように刻まれている。(原文縦書き)

(表面)  島村香圃頌徳碑

       文部大臣松永東謹書

(裏面)君名は裕一香圃と号し大和田の人縣立浦和中學校を卒へ農事試験

    場練習所本科に入り農學を修む昭和十三年若くして大砂土村会

    議員に當選引續き大宮市制第一回市会議員となり二期當選この間

    大宮市消防団長埼玉縣指導農業共同組合連合会専務理事等に推さ

    れ郷土の發展福祉に盡瘁せられる遇吉田芳雨先生東部水利組合の

    組織を企画せらるゝや卒先参画副組合長として揚水機設置場敷地

    を提供し事業の遂行を容易ならしむ芳雨先生頌徳建碑の議成るや

    揚水場敷地と共にその敷地を大宮市に寄贈し當組合永遠の基礎を

    樹てらる因つて組合員並有志相謀り永く感謝の意を傳え玆に本碑

    を建設す

     昭和三十三年四月十三日 撰文撰書武藏一宮氷川神社権宮司東

    角井光臣

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2006年5月 5日 (金)

庚申塔

5月4日付けで記載した、船橋通りと国道16号線東大宮バイパス交差点角の「和食処ふなばし」(上尾市原市593)の脇に、1805年に建立された、道標を兼ねた「庚申塔」が立っている。

船橋通りに面し、ほぼ西向きである。木製上屋が作られ、大切に保存されている。

塔身:高さ135.5㎝、幅33.5㎝、厚さ24cm

台座:地上高26㎝、幅60㎝、奥行55㎝

文字

(正面)

           ゑとミち       (江戸道)

      向  左 あふミや 二里     (大宮)

  庚申塔 之

      方  右 かわこへ 三里半        (川越)

           あきは  二里       (秋葉)

(向って右側面) 

         右 いわつき 二里        (岩槻)

           じおんじ 二里半   (慈恩寺)

(向って左側面)

  文化二乙丑年   當所江  九丁          

         左 しやうふ 三里  原市町(菖蒲)

  四月吉日建之   きさゐ  四里     (騎西)

向之方とは、庚申塔を背にしてという意味だろうか。

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2006年5月 4日 (木)

船橋通り

戦国時代には、大和田村と見沼低地を越えて対岸の寿能城を結ぶ道が通っていた。ところが、寛永6年(1629)、関東郡代伊奈半十郎忠治の見沼溜井築造により、この道は水没してしまった。この道が現在の大和田公園通り、かつての岩槻道と同じところを通っていたことは、大和田村絵図に見沼と接したところに「古道留ル」と書かれていることから確認できる。享保12年(1727)井沢弥惣兵衛為永による見沼溜井干拓によって再び道が作られたが、この間大和田村から大宮宿へはどの道を通って行っていたのであろうか。享保16年11月の、遊馬村土屋村の大和田村への大宮宿助郷差替願に対する反論の文書には、新田作場道ができたが不丈夫で、雨天の際は船橋通りの遠路を廻るより外は無いと書かれており、船橋通りを通っていたと思われる。船橋通りというのは、ニューシャトル原市駅の南側からJR宮原駅方面へ通っている道である。途中芝川に架かっている橋を「船橋」といい、国道16号線東大宮バイパス交差点脇の「むさしのグランドホテル」前には「船橋」というバス停留所がある。バイパスの反対側には「和食処ふなばし」という食堂もある。この辺りまで来ないと見沼溜井を越せなかったわけである。

4月17日には歩いて、5月4日には自転車で大和田から船橋まで行ってみたが、かなり遠い。大和田村が岩槻圏に属していた理由の一端でもあろう。

なお、船橋という地名がいつついたのかはわからない。「和食処ふなばし」の塀に、「船橋の名の由来」という説明板が掲げられているが、「岩槻巷談」の「吉野原合戦之事」の一部を修正したもののようで、そのまま史実とは考えられないので写真のみ掲げる。

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2006年5月 2日 (火)

六十六部供養塔

さいたま市見沼区大和田町で、六十六部供養塔を見つけました。見つけましたといっても、私が知らなかったというだけですが。

東武野田線大和田駅から、大和田駅入口交差点に行く道の途中左側です。(大和田町1-1504)  

           大和田村

 天下大平  寛政八丙辰年     (1796)

奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養塔

 日月清明  八月吉祥日

           行者勝右衛門

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   塔身 高さ84.5㎝、幅36.5㎝、厚さ16.5㎝

   台座 地上高12.0㎝、幅48.5㎝、奥行44.5㎝

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2006年5月 1日 (月)

古河

昨日、けやき古文書学習会の有志9人で、古河に行ってきました。

4月15日(水)の日経新聞夕刊旅欄の「茨城・古河 語り継ぐ徳川の栄華」に刺激されたことがきっかけです。

駅前の万葉碑「逢はずして行かば惜しけむ 麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも」の碑をまず見学。この解釈はいろいろあるようですが、中西進氏の『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社文庫では、「お逢いせぬままに出かけてしまわれたら、何と残念なことでしょう。麻久良我の許我を漕ぎ出る船で一目お逢いしたいことよ」となっており、「渡し場近傍の遊女集団の歌か。」とあります。「麻久良我」の語源は不明のようです。

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「肴町の由来」を書いた説明板や、10万石以下の大名が城下通行の際に取り次ぎを行った「古河藩使者取次所址」碑 などを見ながら「古河歴史博物館」へ。丁度「伊能忠敬 点と線」の特別展を行っていました。(5月7日まで) 伊能忠敬の「測量日記」や地図を見て、その努力と根気には改めて驚かされました。さらに、伊能忠敬が測量した地図を実際にはどういう人たちが見ていたのだろうと気になっていたのですが、古河藩家老鷹見泉石が「沿海地図」を入手していたことを知り、開明的知識人への影響力の一端を見た思いです。

その後、鷹見泉石記念館、古河文学館、篆刻美術館、永井路子旧宅、長谷観音、正定寺、旧武家屋敷街、日光道中道標などを見て帰りました。

大宮から35分程の所に、このように落ち着いた町があったとは。心満たされた一日でした。

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