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2005年8月29日 (月)

開國六十六部供養塔

大和田に珍しい六十六部供養塔があります。

「奉邦禮日本開國六十六部供養塔 明治四未年十月吉日 志主戸山仙右エ門」とううものです。

2字目は正確には「邦」ではなく、手偏に邑(おおざと)ですが、こういう字は藤堂明保編『学研漢和辞典』には載っていません。通常は「拝」とすべきところでしょう。「開國」に見える字が特に問題です。今も昔もこれだけの石碑を建てるとなると相当の費用がかかるでしょうから、そう簡単に字を間違えるわけがない、なにかそれなりに意味があると考えるべきだと思います。

明治4(1871)年10月14日(新05 11月26日)に六十六部は太政官布告により禁止されました。ただし、巡礼が禁止されたわけではなく、同年7月22日(新9月6日)に旅行自由となっていますので、その後も全国を廻り法華経を納めるなどということはあったと思います。ただ、六十六部とは言わなくなったのではないでしょうか。ここで禁止されたのは、同年10月28日(新12月10日)に普化宗(虚無僧)廃止、翌明治5(1872)年9月15日(新10月17日)修験宗(山伏)廃止と同じ流れで、神仏分離、僧民分離、集団化し民心を惑わすと思われたもの禁止ということでしょうか。

したがって、この日以降の六十六部と名前のはいっている供養塔は、太政官の命令が行き渡らなかった、あるいは反抗した等それ自体歴史資料として貴重なものといえると思います。

大和田のこの供養塔は六十六部禁止令を知ってこのように意識的に改変したというのは考えすぎでしょうか。

「志主 戸山仙右エ門」は大和田村の代官・名主の戸山家の分家で、現在も子孫がいます。機会をみてこの供養塔について聞いてみようかと思っています。

大和田にはこの他に真福寺跡墓地に4基?あります。六十六部供養塔は、これは想像ですが、巡礼僧が廻った先に、あるいは大願成就後に本人又はそれに賛同した者が建てた、あるいは六十六部が旅の途中で亡くなったのでその土地の人が供養に建立したのどちらかかと思うのですが、真福寺跡地の中に、深川大工町の教夢の「奉供養六十六部回國成就供養佛」や湯島切通町行者□六の「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」というのがあるのはどういうわけでしょうか。

大和田村古文書の中にこういうのがあります。

 往来手形之事                    

一此松兵衛与申者代々真言宗ニ而拙寺

 旦那ニ紛無御座候此度日本廻國六十六部ニ

 罷出候間所々

 御関所無相違御通被遊可被下候若此者

 何国ニ而相煩病死仕候ハヽ其所之御慈悲

 を以御取置可被下候尤此方迄御届ニ者

 不及申候依而往来證文如件

         武州足立郡中野村

              正法院印

  天明四辰年  伊達庄左衛門知行所

         同国同郡大和田村 

             名主

              八郎右衛門印

   国々

    御関所

     御番衆中

      村々

       御役人中

このような六十六部に関する往来手形はかなりあるのではないかと思います。この文書に出てくる「松兵衛」はどういう人かわかりませんが、人別帳や墓地などを丹念に調べれば手掛かりがえられるかもしれません。子孫がわかればあるいは廻国記録などがないともいえないのではないかなどと思ってもいるのですが。

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