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2005年8月30日 (火)

生糸

今日(8月30日)の日本経済新聞の篠田正浩「私の履歴書」に、池田美智子著『対日経済封鎖』(日本経済新聞社)を引用した部分がありました。それによると、「昭和6年(1931)日本が満州事変を起こし満州侵略を始めるとアメリカが敏感に反応し、バトラー博士がアジアを危機に陥れる日本からの生糸の輸入禁止を世論に訴え、日本農家300万から養蚕収入を奪えと主張、反日の在米中国人が支持し、ロックフェラー財団の会員もこれにつづいた。生糸は当時日本が外貨を稼ぐ最大の商品で、対米輸出の80パーセントを占め農家の重要な収入源だった。この対日ボイコットが農村の疲弊を招いた。」というのです。先日日進神社で繭の奉納額を見たので、この記事がいやに身近な問題として感じられました。

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今日の散歩

今日は大和田南西部を歩きました。

大和田の全ての道を歩こうと少しずつ歩いています。8割以上は歩きました。ただ歩くだけでなく、石造物などを見つけながら歩いています。

今日は特に万治3年(1660)に中丸村と争いになり、大和田6分、中丸4分で決着した高井の馬草場を中心に歩きました。ここは秋葉先生も何回か話の中で触れられた場所です。放火事件で一時話題となったドンキホーテのある、旧16号国道(岩槻新道)の南、中丸に喰いこんでいる一角です。今は家がびっしり並んでいますが、江戸時代は人が住んでいなかったのか石造物は一つもありませんでした。

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2005年8月29日 (月)

開國六十六部供養塔

大和田に珍しい六十六部供養塔があります。

「奉邦禮日本開國六十六部供養塔 明治四未年十月吉日 志主戸山仙右エ門」とううものです。

2字目は正確には「邦」ではなく、手偏に邑(おおざと)ですが、こういう字は藤堂明保編『学研漢和辞典』には載っていません。通常は「拝」とすべきところでしょう。「開國」に見える字が特に問題です。今も昔もこれだけの石碑を建てるとなると相当の費用がかかるでしょうから、そう簡単に字を間違えるわけがない、なにかそれなりに意味があると考えるべきだと思います。

明治4(1871)年10月14日(新05 11月26日)に六十六部は太政官布告により禁止されました。ただし、巡礼が禁止されたわけではなく、同年7月22日(新9月6日)に旅行自由となっていますので、その後も全国を廻り法華経を納めるなどということはあったと思います。ただ、六十六部とは言わなくなったのではないでしょうか。ここで禁止されたのは、同年10月28日(新12月10日)に普化宗(虚無僧)廃止、翌明治5(1872)年9月15日(新10月17日)修験宗(山伏)廃止と同じ流れで、神仏分離、僧民分離、集団化し民心を惑わすと思われたもの禁止ということでしょうか。

したがって、この日以降の六十六部と名前のはいっている供養塔は、太政官の命令が行き渡らなかった、あるいは反抗した等それ自体歴史資料として貴重なものといえると思います。

大和田のこの供養塔は六十六部禁止令を知ってこのように意識的に改変したというのは考えすぎでしょうか。

「志主 戸山仙右エ門」は大和田村の代官・名主の戸山家の分家で、現在も子孫がいます。機会をみてこの供養塔について聞いてみようかと思っています。

大和田にはこの他に真福寺跡墓地に4基?あります。六十六部供養塔は、これは想像ですが、巡礼僧が廻った先に、あるいは大願成就後に本人又はそれに賛同した者が建てた、あるいは六十六部が旅の途中で亡くなったのでその土地の人が供養に建立したのどちらかかと思うのですが、真福寺跡地の中に、深川大工町の教夢の「奉供養六十六部回國成就供養佛」や湯島切通町行者□六の「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」というのがあるのはどういうわけでしょうか。

大和田村古文書の中にこういうのがあります。

 往来手形之事                    

一此松兵衛与申者代々真言宗ニ而拙寺

 旦那ニ紛無御座候此度日本廻國六十六部ニ

 罷出候間所々

 御関所無相違御通被遊可被下候若此者

 何国ニ而相煩病死仕候ハヽ其所之御慈悲

 を以御取置可被下候尤此方迄御届ニ者

 不及申候依而往来證文如件

         武州足立郡中野村

              正法院印

  天明四辰年  伊達庄左衛門知行所

         同国同郡大和田村 

             名主

              八郎右衛門印

   国々

    御関所

     御番衆中

      村々

       御役人中

このような六十六部に関する往来手形はかなりあるのではないかと思います。この文書に出てくる「松兵衛」はどういう人かわかりませんが、人別帳や墓地などを丹念に調べれば手掛かりがえられるかもしれません。子孫がわかればあるいは廻国記録などがないともいえないのではないかなどと思ってもいるのですが。

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2005年8月28日 (日)

見沼通船堀閘門開閉実演見学

見沼通船堀閘門開閉実演が8月28日(日)にありました。05

この写真は二の関の上からしゃがみ込んで写したものです。関では板で水を塞き止めるのではなく、20センチ幅の角材を投げ込んで(投げ込む途中の写真が撮れなくてぼちゃんと水が跳ね上がった場面)鳶口で積み上げる。そうしないと水圧で壊れたり、上がらなくなるとのこと、なるほど大した知恵だと感心しました。一の関で塞き止めたので水位がどんどん上がり、ごらんの通り。板8枚目(160センチ)のところです。その下の写真が2の関、この2の関と見沼代用水東縁を結んでいるのがその下の写真です。

05

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2005年8月23日 (火)

日進神社鳥居

8月20日の大宮郷土史研究会の日進神社調査で、仲間が石鳥居と「石鳥居建設之碑」の調査を担当しました。脚立に乗って巻尺で大きさを計測しました。鳥居はいわゆる「靖国鳥居」の形式(反増がない、額束がない、島木が丸太状、貫が柱まで、貫が角型)で、高さ3845㎜、島木長さ5580㎜、島木径410㎜、貫のところで柱間の内幅2820㎜、下部柱間内幅2915㎜、柱の下部の径360㎜でした。計測用具がなかったので多少誤差はありますが、鳥居の計測はなかなかできないものです。05

この石鳥居は大正7年6月建立で、高さ2160mm、幅980㎜の大きな石碑「石鳥居 建設 之碑」の裏面に寄付者の名前が刻まれています。この碑文を書いたのは清洲・小島善作氏です。日進の天神共有林碑も善作氏の書かれたものです。刻んだのは両方とも中村群鳳氏です。

小島善作氏の書かれた碑文があったら教えてください。かなりあるようで、大和田・鷲神社にもあります。

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繭奉納額

05 8月20日(土)に大宮郷土史研究会で日進神社の調査を行いました。いつもは鍵がかかっている拝殿に入れてもらいました。

拝殿の中に繭の奉納額が掲げてありました。大正4年11月10日に上加養蚕組合が奉納したもので、区分された枠の中に繭が入れられており、白綾、白玉・又昔という繭の名前と繭を作った人(奉納者)の名前が書いてあります。かつては大宮近辺でも繭を生産していたわけで、このような形で残されていることは貴重です。

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上加往還

今年、大宮郷土史研究会が調査を行っている日進町2丁目は、かつては上加村といい、この中央を南北に通っている道を上加往還あるいは与野道といいます。この道はその昔の鎌倉街道で、久喜・白岡・原市・上加・与野・引又(志木)・所沢とつながっていて、陸奥と相模を結んでいた道の一つだったようです。江戸時代にもかなり交通量があり、原市と与野はそれぞれ人馬の継立てを行っていたそうです。

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2005年8月 6日 (土)

伊奈氏

○伊奈氏

  小室領伊奈氏

   忠次(ただつぐ) 熊蔵、従五位下・備前守。家康家臣。小田原攻めなどに功   

     績を上げ、旧領の三河国幡豆郡小島(おじま・愛知県西尾市)のほか、小

     室、 鴻巣に領地を受け、石高1万3000石の大名に。小室に城(陣

     屋)を構える。初代関東郡代を命ぜらる。検地、知行割、治水・新田開

     発(備前堀‐水戸・桶川)、諸産業奨励(結城紬等)、交通制度整備等 

     に力を尽くし、幕府支配の基礎を築いた。墓は鴻巣・勝願寺。

   忠政(ただまさ)熊蔵、従五位下・筑後守。大坂冬の陣・夏の陣で活躍。第

     2代関東郡代。治水・新田開発で功績をあげる。墓は鴻巣・勝願寺。

   忠勝(ただかつ)熊蔵。1万3000石を継ぎ、小室城主となるが、9歳で

     死亡。墓は小室・願成寺。このため小室伊奈家は石高1186石とさ

     れ、以後旗本に。

 赤山領伊奈氏

   忠治(ただはる)忠次次男。半十郎。7000石を与えられ、赤山に城(陣

     屋)を築く。第3代関東郡代。利根川・荒川の付替え工事、見沼溜井造

     成など治水・新田開発などに活躍。墓は鴻巣・勝願寺

   忠克(ただかつ)半左衛門、第4代関東郡代。墓は赤山・源長寺

   忠常(ただつね)半十郎、第5代関東郡代

   忠篤(ただあつ)半十郎、第6代関東郡代

   忠順(ただのぶ)半左衛門、第7代関東郡代

   忠達(ただみち)半左衛門、第8代関東郡代

   忠辰(ただとき)半左衛門、第9代関東郡代

   忠宥(ただおき)半左衛門、従五位下・備前守、第10代関東郡代

   忠敬(ただひろ)半左衛門、第11代関東郡代

   忠尊(ただたか)半左衛門、従五位下・摂津守、右近将監、第12代関東郡

     代、寛政4年(1792)郡代を免ぜられ、伊奈氏の12代202年の

     郡代職終了。

参考文献:『寛政重修諸家譜』、『伊奈公と伊奈町』伊奈町教委

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2005年8月 3日 (水)

富岡八幡宮例大祭

江戸三大祭の一つ、深川・富岡八幡宮例大祭が8月13日(土)~15日(月)に行なわれる。13日(土)は神幸祭、14日(日)は神輿連合渡御、15日(月)は例大祭祭典。

なんといっても14日(日)の連合渡御。54基の神輿が約25000人に担がれ深川一帯を練り歩く。3年に1度の連合渡御という。7時30分八幡宮出発、永代橋は12時頃、ここから八幡宮までの永代通り1.2kmが中心。

水掛け祭といって沿道の観衆が神輿や担ぎ手に水を掛ける。観衆も水を浴びる覚悟が必要。カメラも濡れそう。

地下鉄東西線又は大江戸線「門前仲町駅」下車、徒歩

詳しくは↓

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/index.html#annai

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2005年8月 1日 (月)

氷川神社例大祭

8月1日10:00から氷川神社例大祭が行なわれました。05

各町内の神輿、山車が勢揃いする中を、東角井宮司をはじめとする氷川神社の神職が拝殿に入り、続いて勅使が登殿。ここから先は見ることができませんでしたが、本殿に進み御幣物をお供えし、祭文を述べられたそうです。続いて舞殿で宮内庁の雅楽師による東游(あづまあそび)の舞が奉納されました。05 

氷川神社では今でも幣帛を賜る儀式が連綿と続いており、それを垣間見ることができたということは感激です。

写真中段は御幣物を入れた葛籠。菊の紋章がついています。下段2人目が勅使。05

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