トップページ | 2005年8月 »

2005年7月29日 (金)

土呂村2

○「村」ってなんだ?

江戸時代の村は何時、どのように形成されたのか。地域によって違うだろうが、関東の村は、家康が関東入ってそれ以前からあった中世の村を再編整備したのだろう。まず村が出来て、その後家臣に知行地を与える過程で、相給といって、2人の支配者によって知行される2給とか、3人によって知行される3給とかに行政単位として分割された村もできた。

○土呂村の場合は以前書いたように、3給であった。それぞれ行政単位としては別個であって、それぞれの知行地がそれぞれの領主によって支配されていた。それぞれの知行地ごとに名主、組頭、百姓代がいた。村請といっても土呂村が請負うのではなく、それぞれの知行地が請負うということ。土呂村の「おらが殿様」というのは知行地ごとに違う。当然それぞれの名主は訴えるところも別になる。

○土呂村の場合は初鹿野河内守支配地を下土呂、初鹿野分家と伏見家の支配地を上土呂といったらしい。これが、上土呂村・下土呂村と二村のように公式文書に出てくることもある。ただし、新編武蔵風土記稿には、「今土人は上土呂・下土呂とニ村の如く分ちいへど、こは私の通称なるべし」とある。

○これらの知行地を組というわけではない。ただ、石尊灯篭が上組・中組・下組と分かれており、行政的違いが講の違いにつながっている可能性はある。これは実際に検証してみればすぐわかることだが。

○土呂村をややこしくしているのは見沼新田・寿能原新田ができて天領になったこと。これで土呂村は3給地と天領とになった。寿能原新田については私はよくわからないので見沼新田についていえば、ここには人は住んでいない。耕作するものはいる。おそらく、3給地だったのでこの新田を3つにわけ、それを組といいそれぞれの名主に天領の名主も兼務させた。それぞれの名主の組はそれぞれの知行地の者が耕作していることが多かったが、以前書いたように中には3つの組の土地を耕作している者もいれば他村の者もいる。この名主の天領部分に関する主たる仕事はそれぞれの組の年貢を請け負って幕府に納入すること。

従って従来の知行地については以前のようにそれぞれの領主の支配を受け、それとは別に新たに天領の部分が加わったということ。

○なお、蔵前取りというのは、これらの知行地を持たない者で、幕府の場合天領から入った米を俸禄として幕府から直接貰う。

○それでは村ってなんだ、土呂村は3つの村が集まったのと同じなのか、というとこれが違うのだろう。もしかしたら共同体としては一つの村だったのかもしれない。あるいは上土呂・下土呂と二つの共同体の意識だったのかもしれない。これらについては3名主家の文書や神社の文書をつき合わせないとわからない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月27日 (水)

砂の地蔵院

砂の地蔵院は元、正雲05寺があった所で、明治の初に廃寺となりました。ここには地蔵院の名の通り沢山の地蔵があります。しまむらさんが「砂の万灯」のコメントで触れられた地蔵は、高さ92センチで、光背に「于時正保四丁亥八月吉日 敬白 足立郡為砂村江中衆二世安楽造立之」とあり、1647年に砂村の講員が現世と来世の安楽を願って建立したものです。旧大宮市内では、丸ケ崎の多聞院の六地蔵についで古い地蔵だそうです。柵があって写真が撮りずらいのが欠点。

他にも石造物がいろいろあって、中でも、阿弥陀如来像は、寛文10年(1670)4月吉日の作で、講員の女性40名の名が刻まれています。

この地蔵院は石造物で有名なので、いろいろな人が調べているようですが、もう05一度自分でしらべてみると何か発見があるかも。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土呂の石尊灯篭3

朝起きた時にはまだどんよりしていたが、8時30分頃には05快晴。早速土呂の石尊灯篭を見に行った。(上の灯篭が上組のもの、下が下組のもの)

上組の灯篭は、灯篭の部分のガラスに、正面(道路に面した方)に「大山祗尊」(おおやまづみのみこと)-大山に住む神、左側に「龗大神」(たかおかみのおおかみ?)-龍神で雨を司る、右側に「雷大神」(いかづちのおおかみ)-雷神、と書かれている。大山の阿夫利神社は本社に「大山祗大神」、摂社奥社に「大雷神」、前社に「高龗神」を祀っている。

中組の灯篭は正面と左側に「阿夫利神社」、右側に「土呂中組講中」と書いてある。

下組の灯篭には何も書かれていない。05

上組と中組の灯篭は竹が4本回りに建てられ注連縄で囲われている。下組の灯篭は竹は立てられていない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月26日 (火)

土呂の石尊灯篭2

土呂の上組と下組の石尊灯篭は昨日建ったはずですが、見に行けなかったので、今朝見に行きました。といっても大雨だったので、車で一回りしただけですが。両灯篭ともしっかり建っていました。上組のは中組と同じように回りに4本の竹を立て注連縄を張ってありますが、下組のものは昨年もそうですが、竹は立っていません。

石尊灯篭は暗くなって灯りが点くときれいです。

下組と中組の灯篭の位置は昔とは違うようです。昔は、上組の灯篭が立っている道沿いにあったようです。この道がメイン通りだったようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

埼玉県博物館協議会

こまやさんの「見沼田んぼ」のコメントの

埼玉県博物館協議会「さいたまの海SAIHAKUREN」HPは↓

http://www.saihakuren.org/

加盟各館の展示・講座・講演・各種イベントの案内、ボランティア募集などの情報が載っていて、便利です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月25日 (月)

見沼田んぼ

「なみへい」さんの見沼の内容はよくできていますね。

これ↓をみてください。

http://golog.nifty.com/archives/000207.html

この地図や図はどうやってつくたのでしょうか。見沼通舟堀の図は舟が動くではありませんか。とてもこうはできません。私が作るとすれば、地図や図を描いて、それを写真に撮って載せるくらいしかできません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月24日 (日)

図書館

さいたま市立図書館のHPは↓です。

http://www.lib.city.saitama.jp/topics/index_0601.html

ついでに、

国立国会図書館や埼玉県立図書館でも登録利用者制度、蔵書検索・予約制度をやっています。便利です。

国立国会図書館は↓

http://www.ndl.go.jp/jp/information/guide.html

埼玉県立図書館は↓

http://www.lib.pref.saitama.jp/stplib_doc/kensaku/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

土呂の石尊灯篭1

7月24日(日)9時30分に土呂駅に行く。途中市民の森05道と産業道路の交差05点で、明日はここに中組の石尊灯篭が建つはずと見ると、なんと建っているではないか。急いで家にカメラを取りに行ってパチリ。上組と下組はどうなっているだろうと行ってみたが建っていない。中組はいつも早いのか、それとも今年だけ都合で早く建てた のか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

砂の万灯

砂の万灯は、もとの砂村、今の東大宮1丁目にある八雲神社(天王様)で毎年057月14日に行なわれる夏祭りに奉納された灯篭です。万灯組は本村組、西本組、東本組、中本組、中組、上中組、大上組の7組あり、1組20軒前後の家で構成されているそうです。平成5年以降は祈祷のみで万灯は奉納されていませんでした。万灯を奉納しようという機運が盛り上がり、祭礼は例年通り7月14日におこなわれましたが、万灯は7月23日(土)に12年(13年?)ぶりに全7組が奉納されまし 05た。一番上に飾ってある人形は年によって違うそううで、今年はそれぞれ、太田道灌、弁慶、素盞鳴命、片岡源五衛門、源義経、浅野内匠頭、加藤清正が飾られました。

この神輿の方は、残念ながら上の鳳凰がとれていてありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月18日 (月)

朱印の印肉は何で出来ているのだろう。

7月15日の日経に「キトラの午 鮮明な朱色」という記事と写真が掲載され、午像の朱は「水銀朱とみられる」と書かれているのを見て、朱印の話を思い出しました。

少し調べてみましたら、一般に朱色といわれているものも厳密には「朱」と「丹」に分けられるそうです。

「朱」は水銀朱(硫化第二水銀)で、古代には辰砂を臼でつぶして取り出していたそうですが、大変高価で貴重なものだったようです。

「丹」にはベンガラ(酸化第二鉄)と鉛丹があるそうです。

古墳の壁画や遺体を覆っていた朱は水銀朱を使う場合と、ベンガラを使う場合があって、高松塚古墳壁画では場所によって使いわけていたそうです。

古代の朱色の印肉は鉛丹が中心で、御璽などはこれに水銀朱を加えて鮮やかな色にしていましたが、太政官の出す書類の印肉には水銀朱は加えなかったといわれています。

現在は水銀朱は水銀と硫黄を合成して作っているそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月17日 (日)

土呂村

土呂村は「3給地と天領」です。

土呂村は、天正18年(1590)にかなりの部分を初鹿野伝右衛門(河内守)〔元武田家臣〕に与え、残りは天領。

寛永2年(1625)伝右衛門の子供の代の時に弟の初鹿野次郎左衛門に領地の一部を与えることを許可され、これで2給地と天領。

さらに寛文元年(1661)に天領部分を伏見勘右衛門に与えこれで3給地。

その後享保13年(1728)見沼新田を開発(その土呂村部分が上・下土呂村新田)、これは天領、さらに宝暦年間(1751~64)寿能原を開発(寿能原新田)これも天領。

従って土呂村は時代によって違うが、享保13年以降は3給地と天領です。

3給地それぞれに村役人がおり、初鹿野本家(河内守)領の名主はほぼ新見家が世襲。

初鹿野分家(勘解由?)領の名主は交代制で田中家・小嶋家・吉田家等、

伏見家領の名主も交代制だったようで大野家等。

天領の上土呂村新田は勘右衛門組(宝暦6年(1754)以降平兵衛組:名主交代か)と久左衛門組、下土呂新田は孫三郎組と分かれおり、3給地の名主がそれぞれ兼務していた(新田には人がほとんど住んでいなかった)。

以上『大宮市史』第3巻中と第3巻下から。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2005年8月 »