旧三菱金属鉱業中央研究所 その後
さいたま市大宮区北袋町にあった、旧三菱金属鉱業(三菱マテリアル)中央研究所は、結局解体されてしまった。
北区宮原町にあった、旧中島飛行機(富士重工)大宮製作所の大煙突も解体され、旧大宮市内の近代化遺産の多くが消滅してしまった。
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さいたま市大宮区北袋町にあった、旧三菱金属鉱業(三菱マテリアル)中央研究所は、結局解体されてしまった。
北区宮原町にあった、旧中島飛行機(富士重工)大宮製作所の大煙突も解体され、旧大宮市内の近代化遺産の多くが消滅してしまった。
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さいたま市大宮区北袋町1丁目、さいたま新都心駅前にある、旧三菱金属鉱業中央研究所、現在の三菱マテリアル大宮総合整備センターの建物は、昭和13年建造で、大宮を代表する近代建築である。中央研究所は昭和14年に品川から移転してきたという。現在構内全体を整備中だが、この建物は解体の予定はないというが、ぜひ保存し、一般公開していただきたい。
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さいたま市見沼区大和田町1丁目の細沼(弥次右衛門)家に、かつて見沼田圃で使用された田舟が保存されている。大宮開成高校付近に田を所有していて、そこで収穫された稲などを芝川を使って運んだという。上る時は2人掛かりで、1人は舟の綱を持って土手を引っ張て走ったという。
長さ約6.7mとかなり大きい。長屋門に吊してある。
「免税」の焼印が押してある。
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10月17日に行われた、さいたま市みどりの祭典で、まちづくり市民ネットワーク・さいたまという団体から、昭和21年2月に米軍が撮影した航空写真をいただいた。
下の写真は、現在のさいたま市見沼区大和田町2丁目の、東武野田線大和田駅北側の部分だが、太平洋戦争中、米軍から国鉄の機関車を隠すため 、大和田駅から引込線を敷き、雑木林の中に隠したその線路跡がきれいに写っている。
左上に写っているのが大砂土東小学校で、70代の方は通学途中に線路があったのを記憶しているという。
画面上部の斜線は説明用に団体が引いた線で関係ない。
斜線の下附近で線路が放射状に敷かれている。
画面下の○印が大和田駅。そこからカーブして上部(北)に線路が敷かれている。
米軍から機関車隠すための線路の跡を、戦後米軍
が撮った写真で確認するのはなんともいえない気がする。
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見沼周辺の台地上には、防風林に囲まれた家もまだ点在しているが、防風用の土塁に囲まれた家も何軒か残っている。
大和田の陣屋跡といわれている所に2軒(実は陣屋跡ではないと思われる)、土呂に2軒確認している。
その1軒、「どうろくじん(道陸神)」という屋号で呼ばれている家は、長屋門風の倉庫のある立派な家だが、西側と北側の一部にきれいに土塁が残っている。
土塁上に生えた木が倒れると危ないというので、現在木を伐採しているが、土塁も一部取り除くようである。まことに残念であるが、住んでいる方の立場にたつとやむを得ないのかもしれない。
北側と西側のコーナー(内側からの写真)
写真は平成22年10月17日撮影
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元大宮市長新藤享弘氏「大宮の歴史3」
元大宮市長 新藤享弘氏が語る「大宮の歴史」もいよいよ最終回。
今回は、さいたま市誕生と市長選、その後の大宮 についてお話し
いただきます。市と市民への提言もいただく予定です。
三市合併の裏表、新藤享弘氏にしか語れない「大宮の歴史」です。
講 師 元大宮市長 新藤享弘氏
日 時 平成22年10月30日(土)
9時30分~12時00分(開場9時15分)
会 場 さいたま市立生涯学習総合センター多目的ホール
シーノ大宮 センタープラザ10階
(JR大宮駅西口徒歩5分)
電話048-643-5651
定 員 180名(申込み先着順)
参加費 無料
後 援 さいたま市教育委員会、さいたま市大宮区
◎満員になりましたので、受付を中止いたしました。ありがとうございました。大宮郷土史研究会大宮の歴史係
〒337-0053 さいたま市見沼区大和田町2-663 織本方
電 話 080-6599-2663
メール omiya_kyoudoshi@yahoo.co.jp
ホームページ http://omiyakyoudoshi.blog66.fc2.com/
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12月10日は、大宮氷川神社の大湯祭でした。
大湯祭は、古くは「御火祭り」「火剣祭」といい、神橋の手前東側にあった本地堂(観音堂)東の芝地で火渡りを行い、火王子社殿前で釜湯の神事探湯(くがたち)を行っていたそうです。これは釜に湯を沸騰させ、笹を湯につけ、それを振り掛けて清めをおこなうものです。それで大湯祭というようになったそうです。
延宝4年(1676)、門客人社を奉斎していた氷川内記が上京して神祇伯吉田家にはかり、これを清祓いに替えたそうです。
現在は、宗像神社前で商売繁盛、五穀豊穣等を祈願し、大己貴命(大国様)と少彦名命(恵比寿様)の福神姿の御神札、福熊手、福種銭を授与されるので、大国市ともいいます。
また、大宮はもともと五・十日に市がたっていましたが、十日市(とおかまち)と一体となり、熊手、神棚、駄菓子屋等が参道だけでなく周辺の道路にも並び、大変賑わっています。
賽銭をお祓いした金に替えてもらい商売の元金としたもの。
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さいたま市見沼区大和田町1丁目小林家の分家の墓地に髪塚碑がある。
今はこの家は絶えてしまったが、見沼田圃を見下ろす地に墓地がのこさ
れている。その中にこの髪塚碑がある。
不肖安儀之父曰小林一甫安儀其
第四子初志于醫弱冠遊于江都受
業鹽陳菴先生文政十年丁亥四月(1827)
為上田醫員伊藤氏嗣是歳五月先
髪 子小林君嬰病卒不肖何堪慟哭仍
幸有母存焉足以慰哀慕之情已其
後天保二年己丑七月廿八日吾母(1831)
亦嬰病卒嗟夫生也既缺膝下色養
冢 病也又不得日待湯藥哀嘆何可言
先是不肖従俗圓其頂矣遂以其髪
埋之於先兆之側聊寓侍養之意庶
乎足以慰先考先妣之靈云弘化五
年歳在戊申春三月 (1848)
上田 伊藤安儀自記
*小林一甫四男伊藤安儀が自分の髪を埋めた髪塚の碑
*鹽陳菴=塩田陳庵、明和四年(1767)生まれ。
江戸で名医として名高かった。
*天保二己丑となっているが、天保二年は辛卯、己丑
は文政十二年。
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